こんばんは。みやけです。
たまたま見つけたんだけど、このシネマトのブログ、開始して今日で361日めなんだってね。
もうすぐ1年経つんだねえー。えっシネマトのHPがブログなのっ??って驚いてから(笑)
先週にひきつづき、先日もございましたなあー『こわれゆく女』。
ゆーすけのアツすぎる宣伝に始まり(笑)、たいへんに濃ゆい木曜日でした。いやぁゆーすけ、保護メールに値するファインプレーでしたよ(笑)
さてさて『こわれゆく女』。
「THE濃ゆい映画」でしたね(笑)スゲかったなぁー。初見だったけど、相当にインパクトの強い映画でした。
ついついジーナ・ローランズの演技に目がいってしまっていたけれど、きっとこの映画の主人公は、やっぱり旦那さんのピーター・フォークだよね。
この視点でこの映画が観れるようになってから(開始して40分くらい経ったときだったかな?)、見えるようになってきたこの映画のドラマみたいなものの、すごい奥深さっていうかな。その凄さは、ただただ釘付けでした。やっぱ期待どおり凄い映画でした。
この映画、さっきも書いたけど、この映画のジーナ・ローランズの演技がやっぱり、世界中に数ある映画の中でも、かなり上位に食い入ってくるくらいモノ凄いものだと思う。
カサヴェテスの映画って、前に観た『フェイシズ』もそうだけど、「演技」の存在が重要な映画だと思う。
ある意味、物語なんかどうでもよくなっちゃうくらい演技が一人走りする瞬間があるっていうか。その瞬間に、ただただ打ちのめされてしまうというか。
こういう映画の性質が、たぶんカサヴェテス映画のトレードマークの一つなんだよね。
ところで、先々週かな。
飲みの席でゆーだいと話したと思うんだけど。
物語と映画ってどういう関係なのかなってたまに思ったりするんだよ。
なんか話がメンドクサくなってきたなーとかって思わないでね(笑)
単純にさ、物語の面白い映画ってあるよね?
一回なんかの映画の脚本読んで、単純にその脚本の物語が面白くて、面白い小説を読むみたいにしてその脚本を読んだことがあったの。
んで、そん時はその映画を観ることもなく、それで満足しちゃったんだけど(笑)
要は物語が面白いんだったら、それを別にそのまま文字のまま出しちゃっても全然面白いときだってあると思うんだよ。小説みたいにさ。
だから何かのお話を物語るとき、それを「映画でやる」ってことの意味ってどこにあんのかなあとかって思うときがあるのよ。
お話を物語るだけだったら、小説でだってできるわけだもんね。
例えば黒澤明の『椿三十郎』なんて、たぶんその脚本がすーごい面白い小説だと思うもん(笑)めちゃくちゃお話が上手だから(笑)
脚本と小説をいっしょにするなーってカンカンになりそうな専門家の方々はいっぱいいるとは思うんだけど(笑)
まあとりあえずみやけなりにね、物語を「小説で」じゃなくて、「映画で」やることの意味ってどこにあんのかなあって思ったりするわけよ。
ところで映画って映像の表現だよね?
映像って目で見るもので、小説って文字の表現だから、同じ物語を語るにしても映画の場合って、そこで人が目で見る映像がいつも一緒にあるわけだよね。
たとえば2人の男女が言い争ってて、
なんかこの例多いな(笑)
言い争いの果てに女の人が泣き出すって物語があるとするよね。
小説でこれを書くとしたら、どうだろ、”そこで突然、彼女は泣き出した。”みたいな表現になるのかな。なんかこれ恥ずかしいな(笑)
んで読者はその文章読むって体験を、そこでするわけだよね。
それが映画だったら、当然その画面の中で女の人が泣き出すわけだよね?
そのとき、多分脚本には”女、突然泣き出す。”みたいに書かれてると思うんだけど、実際にその映画を観ている人が体験するのは、その画面の中で泣いている女優さんの姿を観ることだよね。
それはジーナ・ローランズが泣いている姿かもしれないし、もしくはガッキーが泣いてる姿かもしれないし(笑)
とりあえず、モロに具体的に泣いている女の人の姿を目にするわけだよね。
それは文字にしてしまえば、”女、突然泣き出す。”かもしれないけれど、その画面にはおそらくそんな言葉をはみ出てしまうような、とにかく泣いている、ある人間の姿があるわけだよね。
何かの映画が好きっていうときに、ある場面のある役者のあの演技!とか、あの時のあの役者の顔!とかっていうふうに、ある映画のある「画面」が好きってときないかな。
これって小説じゃありえないよね?小説に画面はないワケだし。
この「画面」の感動が、映画にはあると思う。
ふと泣き出したジーナ・ローランズのあの顔が忘れられないって体験は、映画独自の体験だと思うし、映画の優れた醍醐味の一つだと思う。
それはたしかに文字にされれば、”彼女、そこで泣き出す。”かもしれないけれど、それが映画で実際に撮影されると、その言葉では説明されきれないような何かが、映画の場合は表現されると思う。
逆に言うと映画はそうなってしまうっていうふうに、映画の不自由さとしてそれは言われてしまうのかもしれないけれど、でも映画にはこういう特質があると思う。
カサヴェテスの映画の「演技」って、こういう「画面」であるときがあると思う。
『フェイシズ』終盤のジーナ・ローランズが男の人に心を許す瞬間とか、『こわれゆく女』の精神病院から帰ってきて、彼女が子供たちと再会する瞬間とかさ。
『こわれゆく女』の、ピーター・フォークが子供たちと海へ行って、女の子がつい逃げ出して走ってしまう瞬間なんかもホントに素晴らしいよね。
これは言葉として俺も覚えているんじゃなくて、ただある画面として、俺も覚えているんだと思う。だから説明はものすごく単純だよね(笑)
「映画で」物語を物語るっていうことの醍醐味を、カサヴェテスの映画はホントに素晴らしいかたちで見せてくれるなあって思うよ。
映画は映像の表現なんだ、ってね。それを身をもって証明してくれる。すーげぇ力が湧く(笑)
なんか「顔」とか「演技」とかの例が多かったけど、ある風景とか、あと背景でもいいし、
映画の「画面」の感動は、もちろん他の形ででもいくらでもあると思う。
気付けばもーのすごく当たり前の話をしてるだけなんだけども。
でも、こうした感動が表現できるような、そんな映画が撮れたらいいよね。
これは映画じゃなきゃできないことだし、だとすればそれは映画が創り出さなきゃこの世の中には決して存在しないわけだからさ。
そんなものが創り出せたら、ほんと素敵だよね。
あ、俺は決して小説が嫌いっていうわけじゃないです(笑)なんか悪者扱いしてるみたいな文章になってたらゴメンなさい(笑)
さぁさぁ長文になってしまったぞー(笑)
最後まで読んでくれた人、ホントーにありがとぅー(笑)
そして、おつかれさま(爆)
さてさて、今度もまた麗しきジーナさんのご登場ですなぁ。
あっ俺がジーナ・ローランズに目が濁ってこんな文章を書いてるなんて思わないでおくれ(笑)
大切な所はちゃんと冷静になってるつもりです(笑)
ではでは、時間がある人はぜひぜひ足を運んでみてねー。
ほいでわ。